地図はいまも悪夢を知っている
その言葉の意味を、きっと多くの人がまだ知らないだろうし、知らなければ悪夢はまた起きる。そう感じざるをえない取材だった。
知っておいてほしい。あなたの目の前にある、けれど目には見えないリスクを。そして地図は今でもそれを教えてくれる、と。
(社会部記者 飯田耕太)
2020年10月に放送されたニュースの内容です
目次
61年前の新聞記事
「地図は悪夢を知っていた」
そんな衝撃的な見出しが、新聞の一面に載ったのは今から61年前の昭和34年、中部日本新聞(現:中日新聞)日曜版でした。
前の月の「伊勢湾台風」の浸水被害の教訓を伝えるものです。
記録的な高潮や暴風で死者・行方不明者が5000人超、浸水した住宅は30万棟にのぼった伊勢湾台風。
記事は、台風の3年前、地形をもとに浸水の危険性の高さを示した地図と、実際の浸水被害にあった地域がほとんど一致していたことを指摘していました。
このあと、国土地理院から地形や地盤高を示したものなど、さまざまな地図が刊行されることになり、今の「ハザードマップ」につながっています。
耳慣れない“キューカドー”
私がこの記事の存在を知ったのは9月。災害担当となり、台風19号から1年の節目に向けてどんな取材をすべきか、リサーチをしていたときでした。
台風19号は、千曲川や阿武隈川など、大河川も決壊して大きな被害が出ましたが、東京や神奈川の多摩川沿いでも浸水被害が相次ぎました。川崎市で生まれ育ったこともあり、多摩川沿いの被害が気になっていた私は、取材をしたいと考えていました。
調べるうちに、浸水した現場を車や自転車、あるときは歩いて調査していた研究者の存在を知ります。
地理学などが専門の帝京平成大学の准教授、小森次郎さんです。
災害と地形の関係について研究をしていた小森さんは、自宅が多摩川近くにあり、付近まで浸水被害が出たことから、東京や神奈川の被害を受けた各地を歩き、浸水した範囲や地形の特徴を調べていました。
そんな小森さんが語ったひと言は、飲み込むのに時間がかかりました。
帝京平成大学 小森次郎准教授
「去年の台風19号、都市部の浸水はほとんど“キューカドー”で起きていますよ」
“見えない川”が被害につながった?
「旧河道」と書いて「きゅうかどう」。
いきなりこの単語を聞いて、ピンと来ないのはきっと私だけではないはずです。
旧河道とは、読んで字のごとく、かつて川が流れていた地形のことです。周囲より低いため、水が集まりやすいのが特徴だといいます。さらに今は道路に舗装されたり住宅が建ったりして、ほとんどわからないというのです。
地形のリスクについて興味を持って調べていくと、冒頭の記事が研究者の間では有名だったことを知り、何度も目にすることになりました。
小森さんが多摩川の下流沿いで広い範囲に浸水被害が確認された川崎市や東京 世田谷区など15の地域を調査した結果、13の地域で旧河道が含まれていたことがわかりました。
これらの地域では、雨水を排水しきれずにあふれたり、多摩川への排水管から川の水が逆流したりしたほか、支流の氾濫などが起きていたことは、すでに明らかになっています。
重要なのは“旧河道”があったことで、その水が集中したことだと、小森さんはいいます。
なぜ家の前の通りだけ浸水?
実際に「旧河道」があった地域の1つ、川崎市中原区の住宅街を小森さんと訪ねました。
当時、住民が撮影した映像には、通りが水につかる様子が映っていました。
浸水の深さは1メートルほどで、道路沿いの家のほとんどが床上浸水しました。特徴は、その被害が局地的だったことです。
住民の女性は「両隣の通りは何でも無かったのに、この通りだけがひどかった。『なんでうちだけ』と思いました」と首をかしげました。
小森さんが浸水した範囲を確認すると、確かに、一部にとどまっています。それこそが、旧河道の特徴だったのです。
小森さんが指さしたのは、女性の自宅前の向かいの住宅です。基礎部分が道路より一段高くなっていました。さらに、道路の先がわずかに傾斜しているのも確認できました。
高低差は1メートル程度でしたが、旧河道によるこのわずかな差が、浸水被害を生んだのです。
旧河道については、こんなことも言われるそうです。
「旧河道には、再び水が戻る」
“見えない川” 開発進む都市の死角
かつて川だった場所は長い年月を経て、舗装されたり、埋め立てられたり、あるいは住宅が建ったりして痕跡はほとんどありません。特に大都市部では顕著です。
私と小森さんは、タワーマンションや商業施設など建ち並ぶ人気のエリア、JR武蔵小杉駅周辺に向かいました。多摩川から800メートルほど内陸にあるこの場所も、去年の台風では駅やマンションなど広範囲で浸水しました。
一見平らな土地に見える駅前の交差点も、かつて流れていた川の通り道だと小森さんは説明してくれましたが、ほとんどわかりません。通りがかった住民、数人に話を聞きましたが、旧河道の存在は誰も知りませんでした。
しかし、そうした地形も高低差を強調した地図で見ると、旧河道にあたる場所がわずかにくぼんでいるのがわかります。
周囲に比べると1メートルから2メートルほど低くなっています。そのわずかな違いによって水が集まり、被害をもたらしたのだと、小森さんは考えています。
帝京平成大学 小森次郎准教授
「普通に通勤や買い物をしていて、ここが旧河道かと考える人は少ないと思いますが、万が一のときには水が迫るリスクがあるんだと十分わかったうえで、利用する必要があると思います」
旧河道沿いの構造・地形にも注意
より深刻なリスクが顕在化した現場もある。そう聞いて向かったのは川崎市高津区の川沿いの地区です。
こちらには住宅街の中に土の堤防があります。もとは、かつて流れていた川の流れに沿って自然にできたものです。現在も多摩川の下流への氾濫拡大を防ぐため「霞堤(かすみてい)」として残されています。
小森さんは、この堤防があったことで、浸水がより深くなったおそれがあると指摘します。
この地区では、多摩川の支流が水が流れ込めずに逆流するなどしてあふれ、多摩川と合流する一帯が水につかりました。
小森さんは、地区の旧河道に流れ込んだ水が、堤防があるために周囲に逃げにくくなり、急激に水位が上がった可能性があると考えています。
実際にこの堤防の近く、旧河道にあたる場所に建つマンションでは、去年の台風19号で、最大2メートル近くまで浸水し、一階に住む男性が亡くなりました。
大河川の水位だけ見ていても、旧河道のリスクはわからない。
気付いたら水に囲まれているかもしれない。
その恐ろしさをまざまざと感じました。
ハザードマップには載っていない
台風19号の調査で旧河道のリスクを再確認した小森さんは、いま各地で勉強会を開き、旧河道をはじめとする地形の特性や調べ方、避難の在り方などを伝えて回っています。
使うのは「治水地形分類図」です。
国の1級河川沿いを対象に、旧河道の場所などが示されています。
地図をもとに歩くと、具体的なイメージがわきます。急激に水があふれた際、もし旧河道沿いに避難してしまうと、浸水が深くなって立往生したり、足を取られたりするおそれもあるのです。
私が同行した説明会でも、参加した住民のほとんどが旧河道の存在を知りませんでした。
自治体が作成するハザードマップは、高低差をもとに作られているため、浸水するおそれのある範囲は、旧河道も含め、「面」として表現されていますが、旧河道がどこかまではわかりません。
土地の特性を知っておくことで、避難などの対策がとりやすくなると思いました。
地図は悪夢を知っている。そして、今でも教えてくれる
川崎市中原区で浸水被害にあった女性は、取材にこう語りました。
「別の地域に移ることも検討しています。水害はもう、たくさんなので」
実際に、台風19号の被害のあと、住み慣れた家を手放し、別の場所に引っ越した人もいると聞きました。
「地図は悪夢を知っていた」
冒頭に紹介した伊勢湾台風後に書かれた記事には、こうも書かれていました。
「被害を最小限度に食い止める手はいくつもあったはずではないか」
あれから、どれほどの地図が作られたでしょうか。最新の技術に基づく想定やハザードマップが作られ、そして私たちメディアも「ハザードマップをみてください」と訴えています。
地図が持つ本当の意味や行動の必要性が伝わっているだろうか。私たちも改めて考えなければいけないと痛感しました。
取材の最後に、小森さんはこう訴えました。
帝京平成大学 小森次郎准教授
「今回被害のなかったところや、浸水しても数十センチで済んだところでは『こんなこともあったね』と過去の話になり、数年もたつと日常に埋もれてしまうということがよくあります。ときどき家族や地域の人で地図を見ながら話し合ってみたり、近所をもう1回歩いてみたり。そういうことの積み重ねが、一人一人の命を救うんだと思います」
<「治水地形分類図」の調べ方>
旧河道がどこにあるかは、国士地理院の「地理院地図」のホームページ(https://maps.gsi.go.jp/)から確認できます。(※NHKのサイトを離れます)
(1)「地理院地図」のページ左上にある「地図」のマークを選ぶ。
(2)メニュー画面から「土地の成り立ち・土地利用」、「治水地形分類図」を選ぶ。
(3)「更新版(2007年~2019年)」を選択し、調べたい場所の地図を拡大する。
※「旧河道」は青い斜線部分。
※地図上で濃淡を変更すれば現在の地図を参照可能。
この地図では「旧河道」のほかにも、さまざまな災害リスクのある地形が示されています。
▽「後背湿地」…泥が堆積してできた土地のため水分を含みやすく、長期間水につかるおそれがある。
▽「氾濫平野」…過去の洪水で上流からの土砂が堆積してできた平野部で、再び浸水するリスクがある。
▽「扇状地」…土砂が谷の出口からあふれ出てつくられた土地で、大雨の時などには土砂災害の危険性がある。
- 社会部記者
- 飯田耕太
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